終戦記念日

終戦記念日

 

謹んでお伝えいたします。畏きあたりにおかせられましては、この度、詔書を渙発あらせられます。畏くも天皇陛下におかせられましては、本日正午御自ら御放送あそばされます。洵に畏れ多き極みでございます。国民はひとり残らず謹んで玉音を拝しますように

この玉音放送を阻止しようと、近衛連隊がクーデターを起こしていたのですね。

わたしはよく知りませんでした。

これは小さな抵抗があったという程度にしか、認識がありませんでしたが、実はかなり大きなクーデターであったことが分かりました。

wikiより
宮城事件(きゅうじょうじけん)は、1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。
日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自殺もしくは逮捕され、日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。

 

畑中少佐は無言のまま森師団長を拳銃で撃ったそうです。

同席していた白石中佐も上原大尉と窪田少佐によって斬殺されました。

そして宮中が占拠されているんですね。

 

小川中隊長寄稿文

 

14日に最後の御前会議があり、15日に終戦となるわけです。

 

 

陸軍省軍務課の畑中健二少佐を中心とする徹底抗戦派が「玉音放送」を阻止しようとしていたこと。

これがなんだったのか。

玉音放送阻止とは知らずに、命令通りに動いていた方の、生の証言がありました。

月刊正論の2005年9月臨時創刊号に

当時近歩一第一中隊長であった小田敏生氏が寄稿文を寄せています。

 

抜粋~

集合場所は近衛連隊の営庭。現在の北の丸公園へ各中隊が集まりました。午前零時過ぎ、「放送局を占拠し、放送を阻止せよ」という大隊長命令がきました。ただし、それが玉音放送の阻止だということは、われわれ下級将校には知らされませんでした。

――出発は午前1時。将校先遣隊は下士官、兵と共に放送会館へ急行せよ。放送局にいる者を一人といえども外へ出すな。外部からいかなる者も入れてはならない。各部屋のカギを全部没収し、当直以下理事者全員を一室に監禁せよ。

無我夢中で走った

 こういう命令を受けて先遣隊は駆け足で出発しました。こういう場合、中隊長は先には行動しない。中隊には将校が3名いて、その将校に下士官、兵隊をつけて約10名ぐらいの先遣隊を編成して、それを先行させました。先遣隊が放送会館へ急行して、各部屋を封鎖する。そして放送を阻止する。

 先遣隊が出発してから30分後、われわれも全員武装して田村町の放送会館へ向かいました。隊を揃えて粛々と進むのではなく、われがちに行って名誉を奪うようなつもりで駆け足しました。全員、とても張り切っていました。真夜中、無我夢中で、お濠端を走りました。それは、いままでのなかで一番早い行軍でした。とにかく必死でした。

 あっという間に見えてきた放送会館は遮蔽幕がしてあり、明かりは漏れていませんでした。中に入ると、先遣隊は命令通りに占拠してくれていました。

 放送会館は入り口がホールになっていて、曲がり階段を上ったところが中二階になっていました。中二階に連絡してずっと各部屋がある。その中二階が上から下を見るのにいいからというので、そこに陣取り、各兵士にそれぞれの部屋を警備させました。

 しばらくして年配のNHK理事(あとで生田武夫常務理事とわかる)が中二階にいる私のところに来て「私どもは下村情報局総裁の下で全国放送、海外放送を行っています。従って下村総裁の命令がなければ放送を中止するわけにはいきません。ここは是非とも放送させて戴きたい」という。

 私は軍刀を床に突き立てて「われわれは近衛師団長の命令で来ている。近衛師団長の命令はすなわち天皇陛下の命令だ!」と一喝しました。理事はそのまま引き下がりました。

命令の百八十度転換

 夜が明ける15日午前4時半過ぎまでは平穏無事でおりました。けれども、夜がいくらか明け始めたころ、一少佐が参り、私に一言もいわないで、各部屋を巡回し始めました。たまたまそこへ久松大隊長がやってきました。二人は士官学校の同期でしょうか、早口で激論を交わしておりました。

 そこで私は、すでに近衛師団長は亡くなられたこと。近衛連隊は東部軍管区司令官の管轄に入ったという重大な話を直接耳にしました。

 この時点で久松大隊長より「当初の放送阻止を解除して、放送を援護するように」命令の変更を伝えられた。

 私は放送の内容が天皇陛下による戦争継続の宣言だと思っていました。まさか戦争終結のお言葉とは想像すらしていない。陛下が帝国陸海軍軍人および国民に最後の激励をされる。そう思い込んでいた。

《編集部注・近衛師団司令部で森師団長を殺害したのは畑中少佐らである。午前4時40分、阿南惟幾陸相自刃。陸軍首脳が相次いで消えていくなかで近衛師団の反乱を身を挺して収拾したのは、東部軍管区司令官の田中静壱大将であった。東部軍管区司令部はNHKとは目と鼻の先の第一生命ビルにあった》

 午前11時半ごろのことです。東部軍の高級参謀(あとで参謀長の高島少将とわかる)と肩章を吊るした高級副官の大佐、それに憲兵2名が側車(サイドカー)で放送会館にやって来ました。そして入り口で血相を変えて「中隊長はどこにいるか!」と大声で叫びました。中2階から階段を駆け足で降りると、「お前らはニセの命令によって行動した。よいか! 命令を伝える。これから天皇陛下の戦争終結の放送がある。その放送を援護しろ」という。

 私はすでに近衛師団長死亡の情報を知っていたので、この命令を疑う余地はなかった。

 戦争終結のご放送を擁護せよ、と聞いて、途端に最後まで抗戦するという気持ちがプッツリ切れたような感じになりました。

 放送を阻止せよという当初の命令は、近衛師団長の許可もなく参謀の古賀秀正少佐らが出した命令だったわけですが、そんな事情をわれわれが知るよしもありません。

 阻止から擁護へ、命令の百八十度転換は私にとっては表現できないほどの衝撃でした。

悲しい光景

 ご存じのように、それ以前に近衛第二連隊が皇居のなかで陛下の録音盤を探しています。近衛第二連隊の動きについてはほとんど知りませんでした。ただ、映画「日本の一番長い日」の一部に腹が立ちました。兵隊が各女官の部屋の入り口を銃で壊す場面があります。しかし、建物が壊されたところは一か所もありません。

 また、機関銃を御文庫の御座所に向けて据え付ける場面があります。これも違います。近衛兵は断じてこのようなことはいたしません。

 話を戻します。

 事態の急変に動転しましたが、すぐ気をとりなして、参謀長閣下の前で伝令を使って放送の準備をとったわけです。その間の時間というものは一時間に満たないと思います。

 正午の放送時間が近づきました。一階ホールの右手に参謀長、左手に副官が並び、私はそのあいだにはさまれるようにして直立不動の姿勢をとりました。二人の憲兵はその後ろに立ちました。お二人とも長身で、私の頭は肩までしかありません。

 私は肩をはさまれながら涙をこぼして終戦の勅語を聞きました。参謀長は高級副官と手を握り合いながら「これでいい。これでよかったんだ」といい、そのまま側車で司令部に帰りました。

 今度の戦争では神風が吹かなかったといわれています。たしかに戦争に負けたのですから、そうともいえます。

 しかし、いま振り返って私には東部軍の参謀長・高島少将がNHKに来られたこと自体が神風のように思えるのです。

 もし参謀長が来なかったらどうなったか。間一髪で陛下のお言葉を放送できた。それが、今日の日本の繁栄のまさに第一歩だったと私は思うのです。

 そのあと私どもは兵を撤収しました。午後2時半に集結して皇居前へ出て、二重橋前で捧銃(ささげつつ)をしました。

 隊に帰ってきましたら、こんどは「ただちに宮城警護にあたれ」という命令が出ました。私の中隊は皇居二重橋の櫓楼の中に駐屯することになりました。

 陛下の放送を聞いて、各地から続々と将兵が上京しつつあるということでした。なかには「このままでは大日本帝国は崩壊する。近衛連隊は何をしているんだ」と叫んでいる将兵もいるとか。空には飛行機が何機も飛んでいました。15日だったか、それ以降のことも混じっているのか、とにかく宮城前の情景は忘れられません。

 女学生が土下座している。モンぺに白足袋をはいた若い女性が松の木の下で死んでいる。憲兵が私の目の前で拳銃で自決する。どこかの参謀が刀を抜いて「まだ日本は負けていない」といいながら腹を切る。悲しい光景でした。

 水戸航空通信師団の将兵約四百名が水戸駅に集結、急行列車に分乗、「神州不滅」「徹底抗戦」を叫んで上野美術館を占拠したとの情報が入った時には全身が硬直したのを憶えています。

長い一日だった

 宮城警護につきながら、ふと結婚したばかりの妻を思いました。まだ一睡もしていません。私にとっては長い一日でしたが、結婚してまだ五日しか経っていない妻にとっても、長い一日だったと思います。

 結局、家に帰ったのは8月20日のことでした。

 毎年8月が近づくとマスコミに取り上げられる宮城事件が一部少壮将校の蛮行であり愚行であったと結論づけられているが、身命を賭して純粋に国を思う無念の感情を、事実で示した唯一の行動であったと思います。正に昭和の彰義隊であり、白虎隊であったと言えるのではなかろうか。近衛師団起てども利あらず、皇軍の相撃を防ぎ又右翼による内乱暴発を防止して、大命の下、整斉と干戈を収めることができたことは奇跡と言われています。

 亡き昭和天皇のご遺徳を偲び奉り終生昭和天皇崇敬の誠を捧げたいと思います。

 終わりに、経済大国といわれるまでに発展したわが国の今日を思う時、畑中さん、古賀さんをはじめ事件に関与して自決された方々と犠牲となられた森師団長に「心配された国体は護られました。その上日本は経済大国にまで発展しました。どうぞ安らかにお眠り下さい」と心からその冥福をお祈りするとともに、痛ましくも哀れな宮城事件の記事を目にされる時、彰義隊や白虎隊を弔う気持ちを思い起こし、一掬の涕を濺いでもらいたいと思います。

(初出 月刊『正論』平成3年9月号)

 

 

靖国参拝

お盆休みに、ある目的があって信州方面にいってきました。

山あいの小さな村にまで、憲法9条の会や、志位のポスターがべたべたと街道沿いに貼られていました。

もうね、里山の雰囲気が台無し。

そのうちフランケンのポスターまで連続してでてきて、風景を楽しんでいる人は興ざめします。


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