分杭峠体験記2

 

変革が訪れる

 

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分杭峠体験記

前記事からの続きになります。

顔が変わった

分杭峠から帰り宿についたら、やたら眠くて眠くて・・・。

とにかくとてつもない眠気に襲われて、翌朝までこんこんと眠り続けました。

そして翌朝はすっきりと目覚めて、またその日のスケジュールをこなしたんです。

スケジュールといってもおみやげを買ったりしながら帰途に就いたのですが。

そして家にたどり着き、洗濯物をだしに洗面所にいき、ふっと鏡で自分の顔を見ました。

「おおおーっっ」

鏡の前で、映画やドラマの世界のごとく、自分の顔の変わり方に驚愕したのです。

完全に変わってます。

キタ – .∵・(゚∀゚)・∵. – ッ!!

しわが薄くなってるし細かいしわは無くなっていました。

眉間のしわとほうれい線は薄くなっているし。

そういえば分杭峠に行った人たちの体験談で、若返ったというのがありましたが、このことだったんですね。

私の顔はしわが無くなったので、リフティングした感じになっていました。

若返っとるやんけ!!

そしてすぐに分杭峠に持っていった天然石のブレスレットを確認しました。

うわーーーキラキラだよ。

なんと輝きが増してキラキラしていました。

やっぱりこちらにも変化がでていたか。

これが分杭峠で写したブレスの写真です。

ちょうど気場から水場に行く途中で撮影しています。

そしてですね、石の自己主張が強くなったんですよ。

とあまり書くと頭がおかしいと思われますので止めておきますが、石もキラキラになったのです。

 

麻のバッグのお話し

 

そしてこの石の下にあるバッグ、気になりますよね。

これがまた不思議なものなのです。

これはとあるアーティストさんの作品ですが、自然の精霊がくっついきてるんです。

これは一切販売はしていないのです。

縁のあった人の下へいくのだそうです。

私もご縁があっていただきました。

このバッグを初めて母に見せた時、母はずっとひざに置いたまま離しませんでした。

そして不自由な方の手で、ずっと撫でていました。

普段そちらの手を積極的に動かすことはないので、あれっと思いました。

おそらく何か癒しの効果があるのでしょう。

このバッグについては、作者さんがブログで書いていたという記事がありますので、紹介させていただきます。

ちょっと長くなりますが、どういうものなのかがわかってもらえると思います。

読まれれば、おそらく心に響くものがあると思います。

 

麻ひもに編みこまれてしまった時間の迷宮で生きていくこと~ASAHANA(麻華)と私

麻紐に憑りつかれて生きています。もしかしたら私の方が麻紐に憑りついてしまったのかもしれません。起きている間は大半の時間を麻ひもを編むことに費やしています。目が覚めたら、30秒程度で麻ひもと編み針を握りしめています。何が私をそうさせるのかは自分でもよくわかりません。ただ、編み続けています。何がわかってもわからなくても、私は形を求める麻ひもに従って編み続けるしかないのです。

事の始まりは街頭で募金をし、イベントで被災地の商品を売り、支援団体でボランティアをするという震災復興支援でした。ボランティアを続けるうちに、「被災地には支援ではなく魅力が必要なのではないか」と考えるようになりました。魅力あるものを作り、魅力ある人が集い、都会の人々の乾いた心に染み入るような魅力あるライフスタイルを提案することが大切なのではないかと思うようになりました。

支援団体の責任ある人に被災地のブランド化と魅力づくりを提案しましたが、なかなか伝わりませんでした。言葉では伝わらないので、チャリティーでぬいぐるみを作るようになりました。思いのほか評判がよく、よく売れました。可愛いデザインのアクリルたわしも作ってみました。これもよく売れました。支援団体は売れることがうれしいようでしたが、お金以外のことにはあまり反応がありませんでした。それはちょっと違うのではないかと考え始めました。

さらに興味深いことは、支援団体内部から売れた商品に批判的なコメントが意外と寄せられることでした。結局は支援というのもひとつの利権なのかもしれない。私は団体が結果的にお金だけを求める支援に情熱を失ってしまいました。そして、ぬいぐるみが子供っぽすぎるというコメントが私を麻ひもに向かわせる大きなトリガーになりました。

誰もが欲しがるような魅力あふれる素敵なものを、誰もが見向きをしない雑誌を結ぶような麻ひもで作る。市場では価値がないと思われているゴミ箱に直行するようなもので、美しくて魅力的で丈夫な、本当の本物のエコバッグを作ってみせる。私の心の奥底で、強い決意が芽生えていました。

最初は編み方も何もわからず、手探りで格子模様だけを編んでいました。ただのネットのような編地のバッグをいくつもいくつもいくつも。そのネット編みは思いのほか美しく、海で浮き球を入れる網にそっくりでした。私はその網に引き込まれました。そして自分をからっぽにして、麻ひもがなりたい形が空の心にイメージとして浮かんで来たらそのイメージを追いかけるように格子模様を埋めていきました。

だんだんと、編地は複雑な絵柄をおぼえていきました。少しずつ模様が進化を始めたのです。そして時を経て形は立体的になり、私の心の奥底に眠っていた古代遺跡の天井にあるようなレリーフを再現するようになりました。立体的な花柄、渦巻き模様、円柱の飾りにあるような模様、時の彼方に消えた迷宮の扉が開いたかと思えるほどでした。

心を空にして編み続けていると、言葉にならない物語が模様になって降り注いできます。その言語ではない物語が読みたくて、私は麻ひもを片時も手放せずに、麻ひもは物語が人間に届いたことがうれしくてこのつながりを離したくなくて、結果的にこうして今も麻ひもを編み続けています。

土から生まれて土に還る麻の華、ASAHANAのために。

 

~浮き球~

麻ひもで水を運ぶということ 20140503

津波被災者を支援したい。はじまりは単純な善意だった。ポイントはいくつかあった。

・生き残った人の力になりたい、

・波に消えた人の魂を掬い上げたい、

・人として大切なことを踏まえた、旧くて新しいライフスタイルを実践したい

麻ひもは当初、私にとって特別な意味を持つ植物、葛根湯の原料にもなる葛藤(くずふじ)の代替品だった。我が家にはびっしりと葛藤が絡みついている。葛藤の中で生活している。

葛藤は、人手が入った後に放置された林や農地の最後に現れる植物であり、すべてを枯らし葛藤のみが増え続け単極相を形成する植物相の最終形であり、多様性の終わりでもある。しかし驚異的な生命力で葛藤だけは、すべてが滅びた後にも生き残る。ただ、葛藤だけが存在する植物の世界がある。

葛城とは奈良の山と葛にかこまれた場所を示していると言われ、一言主という神を生んだ植物でもある。私見では一言主は言語とイメージの境界に存在していると考える。

それとは別に何年も前から、南の海上からやってくる低気圧に「日本列島を目指す意志」を感じていた。それが何かは特定できないままに、単なる海水温と気流の問題を乗り越えて「最初に狙った場所を必ず通る」決意のようなものを「水・水蒸気」に感じることが多くあった。

昨年5月、超人的体力と戦闘力から日本のランボーと呼ばれた大盛堂書店の故・船坂弘氏による戦記を読んだことで、「水の意志」についての謎を説く手がかりを発見することになる。

海の特別攻撃隊員の「遺志ならぬ意志」ではないかと。

自分の無知ならびに無恥を詫び、「軍神」を約束されて最終的には「水に突入していった」日本人の精神の最高到達点を達成した彼等に、私はどこにもない場所で、つまり自分のメンタルスペースで出会ったように思う。

彼等は土に還ることを求めている。しかしそれは永遠にかなわぬことである。だが、その意志を止める手立てはない。純粋であり、単純であり、可能でもある。

大気汚染とも相まって、土砂を流しつくすほどの水が雨となって日本をめざしている。しかし土砂を流すことが彼らの意志ではまったくない。災害が起きることと彼らは無関係である。

何故目指すのか。日本には、もう彼らが存在する場所は残されていないから。だから存在を主張する。ステレオタイプにおしこめられた神社や記念館は有難い善意ではあるが、彼らの望みとはかけ離れている。「無意味に死んだ可哀想な若者」と彼等に同情することは失礼極まりないことであり、彼らはそれをもっとも忌み嫌っている。精神的に遥か劣位にあるものからの同情を喜ぶ気高き魂がどこにいるというのだろう。それに気づかぬほど、日本人は厚かましく成り果ててしまった。

憑代が必要だと、私は考えたのだと思う。葛藤をそのころ私は「しんぷうさま」と呼んでいた。葛藤の蔓を使って何かを作りたかったが、固くてすぐに折れてしまう。何か代わりになるものを。

それが未精製の麻ひもだった。未精製の麻ひもの色は一定しない。

それらの色は隊員の飛行服の色であり、セピア色の回天搭乗員の写真と同じ色でもあった。

「水を運んで土にする」。それが私の誓いの言葉であった。

その時麻ひも編みは、そのままで浮き球になったのだ。無限に、どこまでも遠くに行ける。

(ちなみに葛藤はそのまま葛藤だけで腐葉土になり、南からの雨が変身した土は我が家に実在している)

それから、麻ひもは私の生きる理由・生きる目的・死出の旅の友になった。それが単なる始まりであったことに、私はまだ気づいていなかった。

それから一年たって、麻ひもが作る形の美しさに圧倒され、麻ひもが運べるものの深さと大きさには、我ながら畏怖を感じるほどである。

どこに向かおうとしているか、だんだんとわかってきている。しかしそれはすぐに言葉になるものではない。大切なものを想像し創造するには、それなりの時間が必要なのだ。

死に急がされた者たちの実感は重い。

本日はここまで。

 

指先から無限 20130807

真夏の太陽、灼熱の外気、温熱豊かな水蒸気をものともせず。ずっと麻ひもの「形になろうとする意志」を追いかける日々が続いている。

不思議なもので、自分で図柄を考えて作ると、あまりピンとこない仕上がりになることがほとんどで。耳を澄ますように心を澄まして、自分を空にしてオートモードで指先が勝手に動くままに編み上がるものが素敵に感じる。

妙なたとえだけれど、自分で何かを考えて出した結論ではなく、言葉ではないお告げのままに生きるとでもいうような。何も考えずに心を空にして、糸を手繰りながら指だけが無心に動くままに、自分は指先を追いかけて存在を消していく。

それでも、作品は出来上がる。自分が考えて作るよりも、ずっと良いものが出来上がる。そのたびごとに感動する。

昔、ブログのエントリーを書くときに、同じような経験があったことを思い出す。自分は単なる書く機械になって、身体と頭を明け渡す。そこには純粋な経験が残り、大きな存在がそれを編み上げる。私は耳から聞こえるような、頭の中の音のない声を追いかけて、ただただ入力するために無心に指を動かす。

そうすると、自分でも考えてみなかったような、発見に満ちあふれた気持ちの良い文章が出来上がる。不思議だった。

糸と言葉と、手繰り寄せるものは違うけれど、今も同じように大きなものに自分を明け渡して線を形に変換している。なんでもない一本の糸が、さまざまな形になって、その形なりの機能を発揮することはとても興味深い。細胞のアナロジー。出発点の形が少し違うかもしれないけれど、細胞に形を与えるのは染色体という糸だとみなせば、あまり違いはない。

自分の手が届く無限が存在していて、指を動かせばとめどなく形があふれてくる。何か大きなもの、「彼等」は形を求めている、与えたがっている。表現を可能にする媒体に愛を注いでいる。

ふと、エントリーを書く前に考えていたことを思い出す。

「何度生まれ変わっても、また日本人になりたい」。では、日本という国の形が壊れたらどうやって日本人になるの?

「また、どこかで命を与えられたら、自分でいたい」。自分という入れ物がなくなったら、どうやって自分になるの?

日本人を日本人たらしめている本質、自分を成立させている本質、本質に普遍性をもたせるまで鍛錬すること。そんなことを何とはなしに考えていた。日本に住む自分という属性から、本質を掘り下げて普遍的な存在につながること。

なんだか、古き良き宗教みたいでもあるし、人間が精神を意識した時に必ず通り過ぎる場所のようでもある。

あたりまえのことを考えているようだけれど、それでも確かな手応えがある。厳しい鍛錬を経て水底に降り積もる尽きせぬ思いを、一筋の細いガラス管から糸のように滴るしずくに変えて。死を超えても決して崩壊することのない、普遍の精神、無限の愛にすべてを委ねた大きな存在からの、微かな響きが。

私を動かす。指先を操る。

尽きせぬ思いを、とめどなくあふれる形に変えていく。

そこには、無限の輝きがある。慈悲のさざめきがある。

divine wind (heaven sent) 20130628  神風特別攻撃隊員に捧ぐ

彼らの崇高な献身は、この世界のすべてのエネルギーを持って報いられることがふさわしい。初めに、細胞生物を超える存在基盤とそれを可能にする地球よりも進化した惑星が与えられる。

死を超えた自由な魂が、宇宙を生成した重力の意志を超越すべく、惑星の新しい世界を創出していく。世界を創出するための資料は、細胞生物に取り込まれた「原初の情報」の集積、すべての事象の記録である。

もっとも大事なことは取捨選択=事象の編集であり、就中、捨てることが求められる。命を捨てて、他者と自己が帰属する世界を守ったものにだけ、その権限が与えられる。すなわち神となる。神の中身は地球由来のローカルな精神であるが、その器=構造は宇宙の外部からもたらされる。

全人的な神という概念が矛盾であることは、現人神と、そして遡れば神の子と呼ばれた人の子が証明した。「神」は外部に由来するものであり、人間を含むあらゆる細胞生物の想像の範囲には存在しない。

地球よりも進化した惑星を形成するためのエネルギーは、進化に失敗した地球が供出する義務を負っている。地球の終わりは、ポスト地球の始まりである。現在の地球には気候変動と地殻変動という爆装が完了している。外的要因としては太陽活動の予測不可能化があり、激化する宇宙風は磁気嵐となって地球に襲い掛かるだろう。

Desert Vine 20140417

1. なぜ、麻ひもでなければならないのか。それはおそらく人類文明の最初期に登場した、細工用のひもという、源流性にあると思われる。そして、加工度の低い植物そのままの繊維が生かされていることによる。

2. なぜ、編み物でなければならないのか。それはおそらく、人類が自分の手で道具を作り出したときに、「ひも」が大きな比重を占めていたことと関係があると思われる。(さまざまな土器に施された縄文、印章に使われた網目模様などの遺物による)。

3. 漁網や魚籠など、生きるために魚をとることと、植物繊維の編み物には不可分の関係があると考えられる。さらに、魚をとることと人を漁ることの共通性。

4. ものを運ぶのに、ひもを細工したものが唯一の手段であった時期が長かったと思われる。ものを運ぶ原点に、ひもを編んで細工したものが用いられたと考えられる。

5. 瓶や筒に水を入れて運ぶために、大変便利な道具であった。

6. 人と動物の間にできた「断絶」を、修復し結びなおすために、「麻ひも」は役割を果たすポテンシャルを有している。(推測)二重らせん、染色体のアナロジー。

7. 水→植物→土(物質循環)と、土→植物→水(水質浄化)の双方向性が存在する。

8. 麻ひもは、麻の茎をほぼそのまま利用しているため保水性が高い。中空繊維の性質による保水性と同時に、茎は植物の導管であり、水路であることが重要である。

9. 模様のバリエーションを増やすために「モチーフ教本」を用いて練習をしたところ、まったく集中できず、「オリジナリティが重要であり、他人の考えた模様は使うべきではない」という感触を得た。妙な話であるが、勝手に手が動いて模様が出来上がる編み方が王道であり、頭で覚えた模様は邪道である。それに加えて「自動的に編み上がるプロセスを邪魔する、プライバシーの侵害である」という意味合い。

10. 22はとても重要な数字。小型のエコバッグはすべて22目を基本に作られる。

11. 編み物の模様を作り出す、やや不思議なプロセス。編み始めにはイメージだけを浮かべていて、具体的な目数や編み方は全く考えない。編み進めるうちに、勝手に手が動くように、模様が決まっていく。集中しているときには、目に見えないガイダンスがオートで誘導するように、手がついていくだけで模様が出来上がる。これは「手が勝手に動いて文章が降ってくる」体験と酷似している。個人の目と手はやや下がって微調整に徹する。

12. 編み物の記憶は、個体の経験を超越している。まったく新しいものが何の予断もなくできてくることは、無意識の記憶、無自覚の記憶を示唆するものと言えるかもしれない。あるいは、陳腐であるが「アカシックレコード編み物版」にアクセスして、編み方が手に自動的にダウンロードされてくるようなイメージ。

13. 上記のような個人の趣味を超える領域から、献身するべき大きなものとして「麻ひもを編むこと」が降りてくる。個人的な感触では、はるか昔に、一心不乱に、手が届かぬ所へ行ってしまった、失われたもののために、余生を編み物に捧げた女性の存在を感知している。その思いそのものに、動かされているようなとでもいうか。

Earth ~ 土

地球の水は彗星によりもたらされた

水は宇宙を循環し、岩石惑星を風化させる

地球に独自のものは「生物由来の土」である

Seed ~ 種

種は種子であると同時に生物の種を表す

あらゆる生物の最終産品は土に辿り着く

良い土を作ることが良い種を生む

良い種は地球だけでなく全惑星の資産となる

Water ~ 旅する水

水は宇宙を旅する媒体である

彗星に乗り、惑星に届けられ、また空に去っていく

人体の70%とも言われる水分は、宇宙由来である

旅先で水に溶ける物質は、その場所の真実を語る

Truth ~ 真実とともに土に還る

人間も一つの生物種であることから逃れられない

文明は人間を動物と区別し多様な仕事を与えたが

最終的に求められる最良の仕事は土に還ること

そして、土に還るときにはすべての虚飾を捨て事実だけ、偽りのない真実だけが種になれる

あざのある男

仲間に見捨てられた それまでの間はずっと

洞窟で写経のようなことをして過ごしていた

編み 祈り続けた女

せめて何か 身に着けるものを

どうかすべてを 洗い流す水を

22 ~ 11×2

22目はさまざまな模様を作り出す

原初のアルファベットは22文字であった

22は人間が作った人工的な世界を表現する

Cilia ~ 繊毛

繊毛を作る微小管は9+2構造(=11)を持っている

単細胞生物、植物、動物すべてに共通のものである

微小管は細胞骨格をなし、生物の形態形成を支配する

微小管の発生と生物の誕生は同時である可能性が高い

Hollow ~ 中空

麻の繊維と繊毛の微小管は ともに中空である

中空のチューブ構造は 情報伝達と深い関係がある

Origin ~ 存在と意識の源

ロジャー・ペンローズの量子脳理論では意識の座は細胞骨格=微小管に存在するとされているが、これは極性を持つ微小管が量子的な計算に最適なことによる

Intermittent ~ 断続性と一貫性

情報は普遍性を備えている。固定情報は不変である

生物は動的平衡の中にあり、常に変化し続けているが

存在の根本では固定情報を利用して物質循環を担う

個体は必ず滅びるが、固定情報は寿命を超えて存在する

一般論としての深化

惑星に存在するものが守るべき原則が存在する

その原則に適う知性を備えることが生物の深化である

人間以前の地球生態系は、望ましい深化を遂げていた

蝶の食性のように

「すべてを知っている」蝶のように

人間の精神を深化させることができるはずである

虚飾を捨て、真実とともに土に還ることができるならば

石器時代も 現在も

人として生きることには普遍性が存在する

洞窟暮らしの人も 古代人も 現代人も

死にゆくときの心の揺れは何も変わらない

悠久の時の流れの中で、ともに土に還る大切なもの

良い土を作る副葬品が指先からできあがっていく

Another sky ~ 別の空 別の世界

うさぎ、ぞう、

麻のタオルで作る愛しきもの

それは共に旅立つ特攻人形であるといえる

 

分杭峠とはなにか

この分杭峠がなぜこんなに変革をもたらすのか、いったいどういう場所なのか。

私なりに答えが出せた気がします。

身体の中に眠っていた力を呼び覚ますのではないのか。

やはり自分で行ってみて、体験してみないとわからないことなのです。

ぜひ自分の足で行かれてみてください。

たぶん人それぞれ、起こることは違うのでしょう。

もしかしたら何もおこらないかもしれない。

それでも旅する価値はあると思います。

この伊那・駒ヶ根という所は、普通ではありません。

そうそう、スーパーに行ったら、お盆のおもてなし料理というのが売っていました。

それは助六寿司と鯉の姿煮でした。

そして当たり前のようにイナゴの佃煮が並んでいましたよ。

 


2 Replies to “分杭峠体験記2”

  1. やはり
    豆腐おかかさんは神様から注目されていますね
    (^_-)

    分杭峠・・・是非行ってみたいです。
    駒ヶ根は高校の林間学校で行ったっきりで、
    正直、ロクな思い出がないのですが、
    今行くと、新たな感覚が湧いて出てくるかもしれません。

    麻のバッグの話。
    私には霊感などなく、神仏のメッセージを
    感じることなどできないのに、
    何となく妙に頷いてしまう自分がいました。
    (おまえ、実はなぁ~んもわかってないだろ、
    って言われそうですが ^_^;)

    私は、神仏の言われたとおり(無意識に)
    行動できるよう、日々、
    心身のアンテナを磨いておく事しかできません。

    もっとも、

    私が続けていることといえば、
    毎週、熱田神宮へお参りに行くことくらいなので
    ちゃんと磨けているか否かはわかりませんが・・・

    また、不思議な話があったら教えてください。

  2. おかか様、更新ありがとうございます。
    麻を編む方の手記、何度も読んでしまいます。
    なぜだか、サン=サーンスの「水族館」が頭の中でずっと鳴っている…。

    分坑峠、訪ねてみたいです。
    でも無心どころか、「若返りたい…」なんてヨダレ垂らしてバチ当たりそう…。

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