陰謀論界隈

トンデモと陰謀論との合体

 

国際かぐや姫学会

これをYouTubeで検索してみますと、大変面白いものがみれます。

超古代文明112サミット。

これも必見。

このタイトルからして、どこかの大ホールを貸し切りでやっている風ですが、

竹取翁博物館

というところでやっているようです。

そしてふすまをよく見てほしいのです。

竹取物語の絵巻が書かれているのです。

これ( ・∀・)イイ!!

ほしいね。

うちも一階にふすまがあるから、書いちゃおうかな。

しかし、これを信じる人はいるのかな。

ありえん。

 

そして皆さんが大好きなこの人、北芝健。

これで検索してみてください。

ムー度満点!トーク vol9.北芝健

陸軍中野学校のお話をしています。

北芝さんを知ったのは、未解決事件を追う番組でした。

元公安のこの人はとある裏組織の一員であると噂されていますが、それも全て陰謀論で流されます。

そしてファンタジーだいんちきだと言われますが、本当のところはどうなのでしょう。

それもただの仮面かもしれません。

ほんとのところは一切わからないのです。

陸軍中野学校といえばスパイ組織です。

諜報戦の話はおもしろいですね。

wiki

沿革
創設の動きは1937年(昭和12年)、戦争形態の加速度的進化で謀略の重要性が増し、日本が世界的な潮流からの停滞を余儀なくされることを怖れた岩畔豪雄中佐が、参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したことに始まる。同年末、陸軍省が中心となってその創設を決定。岩畔、秋草俊、福本亀治各中佐を中心として1938年(昭和13年)3月に「防諜研究所」として新設。同年7月より特種勤務要員(第一期学生19名)の教育を開始した。1939年(昭和14年)5月に同研究所は「後方勤務要員養成所」に改編、7月には第一期学生の卒業を迎える。1940年(昭和15年)には「陸軍中野学校」と改名し、1941年(昭和16年)には参謀本部直轄の軍学校へ転身する。その存在は陸軍内でも極秘とされていた[1]。

創立当初は東京・九段(現在の東京都千代田区・九段)の愛国婦人会本部の別棟が仮校舎であったが、1939年(昭和14年)4月に旧電信隊跡地の中野区囲町に移転。1945年(昭和20年)4月、空襲の激化に伴い群馬県富岡町に疎開、富岡中学校などの施設を利用して講義が行われた。当初は純粋なスパイ技術養成機関であったが、大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦を機にゲリラ戦術教育機関(アメリカ陸軍の特殊戦スクールに相当)へと変貌する。1938年の開校まで統合された教育機関がなかった為、日本軍にとっては有意義であったが、遅きに失した感はある。

1944年(昭和19年)8月、静岡県二俣町(現在の静岡県浜松市天竜区)に遊撃戦(ゲリラ戦)の要員養成を主たる目的として「陸軍中野学校二俣分校」が設立された(1974年(昭和49年)、ルバング島から帰国した小野田寛郎や、インドシナ戦争中にベトミンのクァンガイ陸軍士官学校教官を務めた谷本喜久男が同校の卒業生であった[2])。

学生は陸軍士官学校、陸軍予備士官学校、陸軍教導学校(1943年(昭和18年)8月廃止)出身者から選抜された。その大半は一般大学卒等の学歴を持ち、市井を経た甲種幹部候補生(陸軍予備士官学校卒)出身者であり、次いで教導学校卒の下士官出身者が多く、陸軍士官学校卒の者は少数であった。

1945年(昭和20年)1月3日に中野学校に入校した第8期生150名のうち、90%以上は一般大学や高等専門学校の出身者で、東京帝国大学(現在の東京大学)出身者が最も多く、次いで拓殖大学、東京外事専門学校、そして早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学等が続いた。一般大学出身者から数多く選抜された理由は、諜報員として幅広く高い学識と冷静な視点が求められていたためである。職業軍人たる陸士卒の現役将校の場合、軍人としての規律や高度な軍事知識は身に付いているものの、その知識は偏っていることから判断を誤るおそれがあり、態度にも軍人らしい雰囲気を出してしまう為、商社マンや新聞社通信員等の民間人を装って諜報活動を行う際に妨げとなるから避けられたのである。

 

それから東電OL事件の真犯人について話してますよ。

検察の汚い裏側も。

見てください。

このムー度満点シリーズは、今をときめく陰謀論やトンデモの方々から、かなりの人まで出演してます。

 


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